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大府市寺院巡り花まつり巡拝 寺院紹介
毎年5月3日、4日に「大府市寺院巡り花まつり巡拝」が開催されます。
お釈迦様の誕生日を祝うためのイベントで、市内24ヶ寺を巡拝するスタンプラリーの開催や、各寺の花御堂の飾り設置や甘茶のふるまいを実施しています。
1. 24ヶ寺一覧

2. お寺の紹介
1 専唱院 (大府市朝日町四丁目139)

名号山朝日町四丁目22九番地に所在する。善導寺(知多郡東浦専唱院 町)の末寺。創建当時のことは明らかでない。所蔵する「尾張国知多郡緒川村善導寺大悲殿本尊勧請由来記」などの文書によれば、辻堂の小庵であったが、天正年間(1573〜92)に善導寺の伝譽周源がきて、伝法然筆の「南無阿弥陀仏」の名号を守っていたところから、山号をつけたといわれる。また、付近の樹下から発掘された、「五寸三分」の如意輪観世音菩薩の本像を奉安して、一か寺となしたとも伝えられる。その後、9世堪譽弁随代と18世請相霊典代に観音堂が改築されており、大正12年には波切不動明王を安置し、同14年11月には知多郡本四国直伝弘法第11番の札所となっている。
2 延命寺 (大府市大東町一丁目279)

大府町ヲシ口五六番地(現大東町一丁目)に所在する。蜜蔵院(春日井市熊野町)の末寺。当寺に所蔵する「由緒取調」などによれば、盛祐(じょうゆう)上人により鎌倉時代に開創されたようであるが、その草創年次は不詳である。室町初期には、藤井神社の別当寺として栄え、七堂伽藍をはじめ山内に塔頭を擁していた。中期以後には衰退した。しかし、享禄四年(1531)、比叡山より慶済が晋住(しんじゅう:住職として入寺すること)して中興開山となり、昔日のごとく復興した。天文2年(1533)7月には、後奈良天皇より「寳龍山」の勅額を賜わった。二世仙慶も比叡山より来錫し、三世真慶は緒川城主水野家より出家した人であった。そのため、天文11年には横根城主梶川五左衛門が田畠を寄進し、続いて緒川城主水野宗兵衛ならびに水野内匠からも寺領・山・屋敷などの寄進があり、さらに尾張藩より20石3斗9升4勺の寺領を受けるなど、手厚い外護が加えられたところから、高く法燈を掲げたものであろう。なお、明治維新まで、横根村・大府村・半月村・猪伏村・追分村・村木村・桶廻間村•白沢村•板山村など9か村の神社(四五社)の遷宮導師を勤め、まさしく神仏習合の姿であった。しかし、明治期の神仏分離令によって、その関係は廃絶された。また、当寺は、多くの古文書•墨跡などを所蔵し、その歴史の威容を誇っている。
3 薬師寺 (大府市横根町石丸19)

横根町石丸19番地に所在する。普門寺の末寺。当寺に所薬師寺 蔵する「由緒沿革書」には、往時、大日如来を祀る大日堂があり、天保11年(1840)台風のために大破したが、安政2年(1855)に再建されたとある。なお、弘化4年(1847)11月に、安藤曽右衛門が開基となり、祖峯尼をむかえて堂守とした。明治3年、藤井神社境内に祀っていた薬師堂を移し、同11年に大日堂と公称した。同38年4月、本堂・庫裡を改築し、昭和17年には大日堂から薬師寺と改号した。なお、薬師堂再建の棟札(寛文9年7月・安永3年2月・寛政11年2月・弘化4年10月)を所蔵している。
4 普門寺 (大府市横根町石丸94)

横根町石丸95番地に所在する。曹源寺(豊明市)の末寺。草創は、白鳳元年(673)に流れてきた十一面観音木像を本尊として堂宇を建立し安置したのが、はじまりである。当時は観音堂と称していたが、後に普門庵と改称した。元和年間(1615〜24)に、曹源寺3世雪山寿盛が曹洞宗の寺として再興した。天保年間(1830〜44)に、曹源寺の弟子であった正道得眼が本師の臥雲眠竜の命を受け、弁玉得上を法地開山に勧請し、本堂などを再建して復興した。なお、当寺は、明和7年(1770)閏6月に記された「当山由来」の板本を所蔵しており、それによって略縁起が明らかにされた。また、人法系にあたり、賢聖院に頂相がある仏海慈舟の語録の「大光慈舟老人語録」乾坤の写本を所蔵している。
5 極楽寺 (大府市北崎町城畑112)

北崎町城畑112番地に所在する。善導寺(東浦町)の末寺。草創については詳細は不明であるが、元和6年(1620)に善栄によって開かれたと伝えられる。はじめは道場山極楽寺と称し、善導寺の手継であった。六世呑説が本堂を再建し、9世澄音によって寺の什具などが完備された。再興時の享保9年(1724)6月の棟札があり、のちに、25年間住持した17世湛秀は、現在の本堂を建立した。
6 賢聖院 (大府市北崎町北屋敷22)

北崎町北屋敷22番地に所在する。曹源寺(豊明市)の末寺。当寺に所蔵する「諸記録」によれば、創建は永禄7年(1564)3月で、開基甚入昌徹によって開創され、快翁竜宣!一の開山である。その後、弘化2年(1845)11月22日に曹山智洞が住持になると、本堂・庫裡などを再建し、明治13年には、蓑翁鉤玄を法地開山に勧請した。また、当時の曹源寺住持雲菴黄竜を2世に勧請し、自らは3世となって法地起立せられた。その後、曹源寺の法嗣が住持になるようになり、歴代住持の本師も、世代に請牌されている。なお、当寺は、永安寺(名古屋市東区東桜)・大光院(名古屋市中区大須)の住持となり、『大光慈舟禅師易®録』という語録も残した高僧仏海慈舟(1745〜1822)の頂相を所蔵している。
7 庚申寺 (大府市北崎町北屋敷3)

北崎町北屋敷3番地に所在する。普門寺の末寺。詳しい縁起は明らかでないが、天保10年(1839)11月に神谷氏が入寺したもので、開祖は泰岩魯山尼である。
8 阿弥陀寺 (大府市神田町六丁目54)

北崎町平地10番地に所在する。正願寺の末寺。草創は元禄10年(1697)ごろに、神谷清兵衛が出家して教信と号したおり、その隠居所を寺としたのにはじまる。もとは天台宗に属していたが、浄土真宗に転じ、東本願寺名古屋別院(名古屋市中区橘町)末寺の阿弥陀堂と称していた。しかし、一定した堂宇がなかったため、嘉永年間(1848〜54)の初期に、安井得聞が来山して住み、慶応元年(1865)12月に、阿弥陀堂の監寺となった。そこで、信徒協議のうえ、寺格の昇階をはかり、東本願寺に出願したが、得聞は慶応3年12月17日に遷化した。そして、翌明治元年12月に、寺号の公称が許可された。
9 光善寺 (大府市北崎町四丁目308)

北崎町不二塚22番光善寺地に所在する。曹源寺(豊明市)の末寺。当寺に所蔵する「延命地蔵大菩薩略縁起」には、永禄年間(1558〜70)の草創で、その後、尾張藩主3代の徳川綱誠の室新姫が、母の千代姫の菩提冥福を祈るため再興したとある。開山に快翁竜喜を迎えたが、明和5年(1768)火災にあって、全山を焼失した。
10 蔵福寺 (大府市北崎町五丁目112)

北崎町東定保根蔵福寺90番地の1に所在する。曹源寺(豊明市)の末寺。当寺に所蔵する「由緒沿革書」によれば、宝暦2年(1752)2月14日に開創されたということである。村人の甚兵衛の霊夢により、小川の中から石造地蔵菩薩を拾いあげ、本尊として堂宇を建立した。それ以来、参詣者は多くなり、大正14年2月には諸堂を大改築し、昭和17年には宗教法人法によって蔵福寺と称されることになった。
11 一如寺 (大府市東新町五丁目187)

東新町五丁目187番地に所在する。長沢寺の末寺。当寺が所蔵する「明細書」の由緒によれば、宝暦9年(1759)4月に、長沢寺の弟子岸応が譲り受けた薬師如来を祀り、薬師堂と称したのが草創である。文政2年(1819)2月に恵苗によつて再興され、明治13年にー如庵と公称された。その後、昭和17年に一如寺と改号している。
12 淨通院 (大府市追分町三丁目12)

追分町三丁目12番地に所在する。曹源寺(豊明市)の末寺。当寺に所蔵する「寺籍財産明細帳」には、永禄2年(1559)松山蟠公が西明寺(豊川市)3世実田以耘を開山に勧請して、創建したとある。乾坤院(東浦町)の輪番地でもあったが、開基は明らかでない。北方字元屋敷の追分城主稲垣淡路守の発願により創建されたとの一説もある。草創地は、現在地より北方三町(約300メートル)余の字元屋敷にあったが、宝暦5年(1755)7世天長代に諸堂を焼失したため、同7年夏、現在地を開拓して、翌8年に諸堂を再建した。その後、安永6年(1777)6月、9世祖嶽は曹源寺7世悟山徹明を勧請して法地再興し、伝法開山として以後、曹源寺の末寺に転じた。12世大光代に田畑の寄進を受け、約20石高となっている。18世俊童代にいたり、諸堂が朽廃したため修繕され、新しく鐘楼堂を建立するなどして、伽藍の改築を行った。また、22世俊雄代の昭和49年には、庫裡・書院・鐘楼を新築し、梵鐘を鋳造するなど、その面目を一新した。
13 東光寺 (大府市共和町五丁目192)

共和山共和町五丁目192番地に所在する。大本山永平寺(福井県吉田郡永平寺町)の末寺。所蔵する明治19年の「寺籍財産明細帳」の開創沿革によれば、もと、曹源寺(豊明市栄町)境内にあった東光庵が草創で、天文年間(1532〜55)に開かれた。以来、曹源寺住持が兼務していたが、無住であった。明治6年、小谷良器が、曹源寺に合併されて寺号のみ残っていたものを再興することを発願し、以前、観音堂が建立されていた現在地へ移転して、小島庄助らの外護により同12年8月2日に再興の許可をえた。そして、現山号に改称し、永平寺60世環渓密雲を再興開祖に勧請し、永平寺の直末となった。なお、当寺は、卍山道白編による道元禅師の『正法眼蔵』の写本20冊を所蔵している。識語によれば、元禄11年(1698)8月に山名豊忠が書写したもので、卍山本の成立後、15年を経ている。
14 円通寺 (大府市共和町小仏67)

共和町小仏67番地に所在する。春江院(名古屋市緑区大高円通寺町)の末寺。当寺が所蔵する文禄2年(1593)3月18日、住持の哲栄が記した「観音縁起」によれば、聖武帝の天平元年(729)に行基菩薩がこの地へきて、馬頭観世音と子安准胝観世音の二尊像を彫刻し、伽藍を創建して安置したことにはじまる。また、霊本をもって尊容を彫刻したので、山号を瑞本山と称し、観自在の神通をとって円通寺と名付けて、法相宗の開基開山となった。その後、承平•天慶の乱(平将門の乱)によって焼失したが、真言宗として再興されたが、光明天皇の時代に建武の戦乱が起り、再び焼土と化した。貞和4年(1348)に、夢窓国師が鎌倉への途中にこの地を通ったさい、楼門一宇のみが残されている惨状をみて、堂舎・厨庫を造営し、臨済宗の寺院として、自ら中興開山となった。文禄2年(1593)夏、哲栄が遷化し、臨済宗の相続者がいなかったため、村人が相談して、曹洞宗の昌山秀繁を後席に勧請した。秀繁は、春江院の住持と約束して、その末刹となり、慶長15年(1610)示寂して中興開基となった。その後、春江院9世の凰山祖鳳を勧請して法地開闢されている。なお、文政7年(1824)には、弘法大師の霊場として知多新四国第88番の札所に列した。当寺は草創以来、法相、真言、臨済、曹洞と四宗派の変遷に及ぶもので、観音尊像・棟札・仏像などの寺宝を護りながら、千二百有余年の歴史と法燈を伝えている。
15 良徳寺 (大府市共和町小仏73)

共和町小仏73番地に所在する。円通寺の末寺。当寺が所蔵する「過去帳」によれば、嘉永年間(1848〜54)に山口徳左衛門の娘ひさ(徳応妙久大姉)が臨終にさいし、私財および家宅を投じて創庵したもので、薬師堂と称していたが、3世良貫尼は伽藍を再興した。昭和35年5月より、宗教法人良徳寺と改称した。良貫尼の「良」と開基戒名の「徳」をもって寺号を良徳寺と命名した。
16 地蔵寺 (大府市長草町本郷40)

長草町本郷40番地に所在する。長源寺(東海市)の末寺。 草創は、天正元年(1573)地頭市村伝四郎の勧請で建立された地蔵堂で、同3年に長源寺より教岩玄祖をむかえて開かれた寺である。慶長19年(1614)に日山天朔が伽藍を建立して相続した。文化元年(1804)に楞厳寺(刈谷市)17世印宗定海は、長源寺に懇請し、法幢を開いて法地を再興し、法地開山となった。そのため、以後、楞厳寺との関係も深くなって今日に及んでいる。なお、本尊の地蔵菩薩像は、聖徳太子の作と伝えられる。った。そのため、以後、楞厳寺との関係も深くなって今日に及んでいる。なお、本尊の地蔵菩薩像は、聖徳太子の作と伝えられる。
17 清涼寺 (大府市吉田町五丁目124)

吉田町平地109番地に所在する。普済寺(東海市)の末寺。当寺に所蔵する「由緒書」によれば、永禄10年(1567)普済寺3世桃林有仙の開創で、はじめ清水にあって、森脇山宝珠庵と称していた。その時代の「過去帳」は現在も所在している。しかし、元文5年(1740)4月に現在地へ移転し、開山桃林にちなんで桃林山と号し、もとの所在地の清水の意味から清涼寺に改称した。明治13年12月、大雄祖峰は伝法開山に本師の普済寺21世大洞義山を勧請し、法地起立を行っている。
18 延命寺 (大府市米田町一丁目302)

吉田町後畑59番地に所在する。天性寺の末寺。草創は不詳であるが、往時より地蔵堂と称し延命地蔵菩薩像を安置していた。開基良仙尼、2世仙峯尼、3世峯林尼、4世仙宗尼と続き、明治13年に延命庵と称したが、昭和23年に延命寺と号することになった。
19 天性寺 (大府市米田町二丁目47)

吉田町前田天性寺73番地に所在する。普済寺(東海市)の末寺。寺本村の堀内城主花井播磨守英邑入道信忠5世の孫花井勘八郎の嫡子花井清拾は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦にさいして、陸奥国へ遁れ、信州への流寓後、本国へ帰った。そして、子孫繁栄を祈願し、寛永10年(1633)に堂宇を建立し普済寺8世来天量撮を特請して開山となした。また、伝来の念持の仏舎利5粒を、本尊釈迦牟尼仏木像の腹籠りに奉安して現山寺号を称した。元文4年(1739)4世心開田良代に本堂が大破したため、遠孫の花井市右衛門・花井市郎右衛門などがはかって再建した。なお、当寺は「花井氏系譜」を所蔵している。その後、明治9年4月、慶能覚勇は、恩師の影向寺(南知多町)の珍道大牛を勧請して法地開闢第一祖に迎え、自らは2世となって、本堂・開山堂などを増改築し、再興した。
20 祖山寺 (大府市吉田町三丁目229)

吉田町神池下39番地に所在する。常福寺の末寺。「由緒沿革書」によれば、草創は阿弥陀如来を安置した小堂で、伴甚之右衛門の屋敷の隣にあり、同氏の女が尼僧となったため、氏は私財を投じて堂宇を現地に建立し、阿弥陀堂と称した。文化10年(1822)祖山尼が再興したが、明治期になり、堂庵廃止の令が発せられたため、明治13年、開基の霊雲祖山尼の名から祖山庵と称するようになった。昭和12 年、堂宇を大改築し、同17年に祖山寺と号した。
21 常福寺 (大府市半月町三丁目151)

吉田町北向52番地に所在する。乾坤院(知多郡東浦町)の末寺。所蔵する過去帳によると、建久年間(1190〜9)に、平景清が開創したとある。景清はこの地にきて、つねに観世音菩薩を念じ、自ら観音の本像を彫刻し草庵を結んで安置したといわれる。この観音堂が前身となり、満念山常福寺となった。満念とは観音菩薩の徳に報いる念願満足の意味で、つねに景清の冥福を祈るところから、常福寺の寺号となった。後に、万年山と改称した。天文15年(1546)に火災にあい、慶長14年(1609)九月、浅羽八太夫が敷地を寄進して村民と協力し、観音堂と別に客殿・庫裡などを建立し、乾坤院3世芝岡宗伝の法孫、養泉元育を請じて開山となした。宝永5年(1708)には、諸堂を20間余り東に移して法堂を建立したが、安政4年(1857)11月に、2世大賢泰道が再び本堂建立を発願して以来、明治7年12月に法地再興され、同9年2月に完成した。その棟札が残っており、そのほか、黄彙宗開祖の隠元隆琦の墨跡も所蔵する。
22 長澤寺 (大府市森岡町四丁目129)

森岡町神田四三番地に所在する。乾坤院(知多郡東浦町)の末寺。草創は当寺が所蔵する文化11年(1814)8月の「覚」によれば、大永元年(1521)に猪伏村字神田の長寿庵と同村の山上にあった黒沢氏の城が、ともに戦乱の兵火によって焼失し、その菩提を弔うため同所へ寺院を建立したということである。そして、長寿庵の「長」と黒沢氏の「沢」をとって長沢寺と命名したといわれる。その後、天文5年(1536)に乾坤院4世周弼中易の法嗣の天室長祐が開山となり、12代を経過したが、明治9年10月に2世虚谷翠巌が法兄の祖山智門を勧請して、法地再興した。なお、当寺は昭和44年に、鉄筋コンクリート造りの本堂を再建したが、平僧地時代の多くの棟札を所蔵している。
23 大日寺 (大府市月見町五丁目251)

大府町土前1番地の1に所在する。伝宗院(東浦町)の末寺。草創は当寺が所蔵する「仏堂明細帳」には、年次は不詳であるが、天文年間(1532〜55)に大日如来を安置したー宇が建立されたことにはじまる。その後、享保3年(1718)8月に再建され、明治36年12月に説教所となった。大正9年6月に諸堂の増改築が行われ、昭和17年に大日寺の称号をえた。なお、本尊の大日如来像は行基の作と伝えられる。
24 地蔵院 (大府市中央町六丁目59)

大府町向畑79番地の1に所在する。乾坤院(東浦町)の末寺。延命寺(大府町)の隠居所で、延命地蔵菩薩を安置した地蔵堂が字桟敷にあったが、それに明治9年に篠島の松寿寺(南知多町篠島)末寺玉林庵の寺籍を移した。そして、同23年9月に玉林庵から地蔵庵と改称し、また、乾坤院独住4世大応成典を再興開山に勧請して、乾坤院末寺と改めた。昭和17年には地蔵院と改号した。
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